深谷Biiki 第6号
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45明治末に造れた、風穴の天然冷気を生かした日本最大規模の蚕種(蚕の卵)貯蔵施設。養蚕が年数回行えるようになり、生糸増産に貢献した。荒船風穴(下仁田町)通風と温度管理を調和させた蚕の飼育法を完成させた高山長五郎が設立した養蚕教育機関「高山社」。国内はもとより海外からも生徒が入学した。高山社跡(藤岡市)富岡製糸場と深谷の偉人たち深谷市血洗島に生まれ、尾高惇忠に論語を学ぶ。尊王攘夷思想に影響を受けて幕府倒幕を計画するも、一橋(徳川)慶喜に仕え、家臣として渡欧。明治維新後に政府大蔵省で租税正(そぜいのかみ)として、富岡製糸場設立に尽力する。退任後は500以上の企業設立に関わる。渋沢 栄一(1840~1931)しぶさわ えいいち深谷市下手計に生まれる。17歳で自宅に塾を開き、近隣の子どもたちに学問を教える。尊王攘夷派であったが、栄一が徳川慶喜に仕えたのを機に考えを改める。明治維新後は民部省に招かれ、富岡製糸場設立にも関わり、建設資材調達や工女募集に尽力。初代場長を務めた。尾高 惇忠(1830~1901)おだか じゅんちゅう深谷市明戸生まれ。富岡製糸場建設時に資材調達のまとめ役を務めた。建築資材の煉瓦は製造方法も分からない中、深谷の瓦職人と共に試行錯誤の上、日本で初めて煉瓦を焼き上げることに成功。その後は「賄方(まかないがた)」として富岡製糸場で働く人々を支えた。韮塚 直次郎(1823~1898)にらづか なおじろう深谷探訪 第5回 ①「深谷と富岡」の関係 富岡製糸場の建設とその偉業の裏には、深谷出身の偉人たちの力がありました。明治政府において富岡製糸場の開設に奔走した渋沢栄一、富岡製糸場の建築資材調達や初代場長を務めた尾高惇忠、富岡製糸場に使用する煉瓦製造を深谷の瓦職人を率いて担当した韮塚直次郎。さらに尾高惇忠の長女ゆうは富岡製糸場の工女第1号となりました。富岡市立美術博物館蔵明治末に造れた、風穴の天然冷気を生かした日本最大規模の蚕種(蚕の卵)貯蔵施設。養蚕が年数回行えるようになり、生糸増産に貢献した。こんな歴史があったなんて…!深谷市教育委員会渋沢史料館所蔵個人蔵写真提供/群馬県写真提供/群馬県

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